Spent the whole day writing this short thesis due Wednesday. Written from an undeniably biased and extremist point of view that I doubt the teacher will allow this to be published. Hmm... Let me guess... She'll most probably reject it and demand me to take a more neutral stance. (If she doesn't tell me to switch topic of course!) Anyway, I demand my right to the freedom of speech and shall therefore, post it here. Whether it'll make it to publication or not is another matter.
教条的な道徳は絶対的な道徳?
人間が社会の一員として、その体系の安定を維持するのに、行為はある承認された規範に限られている。その規範は善悪の判断する尺度かつ共同体における価値 となり、「道徳」とされている。現代社会の道徳的堕落というと、ほとんどの人は相変わらずそれを現代人の信念が弱まっているということと連想していく傾向 がある。なぜかというと、宗教は道徳の尺度とされているからである。
善悪を判断する能力は、人間にとって、大きな天の恵みである。文明 が始まるやいなや、人間は自分の行動を「善」と「悪」にわけ、道徳の体系を作り出した。しかし、「真理」の知らぬ無知な人間によって定められた道徳の規範 は絶対的なものではない。「絶対的な道徳」になるのは、全能だし、無限に賢い創造者を「最善」の規範とし、定められた道徳の体系である。それはかつてから 人間の信念に根付いて、宗教はもう道徳の土台になったのである。
米国に生まれた心理学者ローレンス・コールベルグ(Lawrence Kohlberg)の研究によると、道徳は理論的な推理であり、その発達は大きく三つの段階に分けることができるということ*1。 第一段階は一般的に言えば、子供の推理方法である。子供であっても、何か行為をすればか、必ず何か結果をもたらすということがわかるはずだそうである。ま だ判断力のない子供は、自分行為の善悪を分けるために、その結果から考えるわけである。例えば、両親からほめ言葉をもたらす行為は、いいとされ、叱りをも たらす行為は、悪いとされる。宗教のある人間は、自分のすべての行為が全知全能の神様に裁判されていると信じ、欲を制御し、神様の「規則」を従うわけであ る。罪を犯した人間は神様から罰則を受ける。そのため、人間は不道徳な行為を避けるべきである。しかし、それは本質的な道徳よりも、子供の段階の推理方法 により、定められた道徳ではないか。
また、ただ聖書や聖典に記されていることで、あるものを道徳として守るのは、「道徳」とは言えない だろう。こんな場合は、「盲従」という言葉のほうが適当だろう。宗教の始まりから、人間は宗教に対する盲従で、道徳の体系を崩す枚挙にいとまがない。中世 末期キリスト教会の主導によって行われた魔女狩りで、数百万人(実際の数が不明)は焚刑、絞首刑、溺死刑などの残虐な処刑法で犠牲された*2。14世紀から16世紀にわたって、中米メキシコに栄えるアステカ文明は、ピラミッドで生きたまま人間の生贄の胸を切り分け、心臓を神様へのささげ物としてえぐり出す行為があるそうである*3。また、今日の自爆テロは自分の宗教を絶対的なものと主張し、理性さえ失われるほど盲従してしまう。このように、宗教を絶対的な道徳にすることの危険性は明らかである。
そうして、宗教は絶対的な道徳だとすれば、その規範は一つしかないはずである。なぜかというと、「真理」は一つしかないからである。しかし、世界宗教はそ れぞれ異なった道徳の体系をもっている。例えば、同性愛は道徳な行為か不道徳な行為かということを考えてみよう。キリスト教やイスラム教では同性愛行為は 自然に逆らうので、不道徳だとされている。それに対して、仏教の聖典にはそれに対する一致は別にない。また、現代社会の価値観から見れば、人間の性的な傾 向を犯すのは、不道徳な行為だとされているため、イギリスでは同性愛行為は合法化されている。それに対して、ほとんど他の国では、それが禁制されている。 だから、道徳の尺度は文化のみならず、宗教にわたって異なっているのである。それは巨大な矛盾であり、一言で言えば、道徳は相対的なものである。
道徳自体はそもそも宗教から枝分かれするのではなく、独立するものである。例えば、利己ではなく、友に共感できるという道徳性は、人間にだけでなく、ネズ ミにも表されている。動物行為の研究者マック・ベッコフ(Marc Bekoff)は、ネズミは自分がえさをとることで、友が感電されたら、共感して、それをやめるという「動物の道徳性」を観察した*4。また、吸血コウモリには飢えている友に食べさせてあげる行為があるそうである*5。以上の例を考えると、道徳は宗教を規範にする必要はない。というのは、道徳は自然に生じる性質だからである。
このように、道徳は宗教と相互に独立するものということが否定できない。教条主義的な道徳は絶対的な道徳ではない。それは、人間の理性や共感により定められたものは、道徳の規範になれるわけからである。
参考文献:
教条的な道徳は絶対的な道徳?
人間が社会の一員として、その体系の安定を維持するのに、行為はある承認された規範に限られている。その規範は善悪の判断する尺度かつ共同体における価値 となり、「道徳」とされている。現代社会の道徳的堕落というと、ほとんどの人は相変わらずそれを現代人の信念が弱まっているということと連想していく傾向 がある。なぜかというと、宗教は道徳の尺度とされているからである。
善悪を判断する能力は、人間にとって、大きな天の恵みである。文明 が始まるやいなや、人間は自分の行動を「善」と「悪」にわけ、道徳の体系を作り出した。しかし、「真理」の知らぬ無知な人間によって定められた道徳の規範 は絶対的なものではない。「絶対的な道徳」になるのは、全能だし、無限に賢い創造者を「最善」の規範とし、定められた道徳の体系である。それはかつてから 人間の信念に根付いて、宗教はもう道徳の土台になったのである。
米国に生まれた心理学者ローレンス・コールベルグ(Lawrence Kohlberg)の研究によると、道徳は理論的な推理であり、その発達は大きく三つの段階に分けることができるということ*1。 第一段階は一般的に言えば、子供の推理方法である。子供であっても、何か行為をすればか、必ず何か結果をもたらすということがわかるはずだそうである。ま だ判断力のない子供は、自分行為の善悪を分けるために、その結果から考えるわけである。例えば、両親からほめ言葉をもたらす行為は、いいとされ、叱りをも たらす行為は、悪いとされる。宗教のある人間は、自分のすべての行為が全知全能の神様に裁判されていると信じ、欲を制御し、神様の「規則」を従うわけであ る。罪を犯した人間は神様から罰則を受ける。そのため、人間は不道徳な行為を避けるべきである。しかし、それは本質的な道徳よりも、子供の段階の推理方法 により、定められた道徳ではないか。
また、ただ聖書や聖典に記されていることで、あるものを道徳として守るのは、「道徳」とは言えない だろう。こんな場合は、「盲従」という言葉のほうが適当だろう。宗教の始まりから、人間は宗教に対する盲従で、道徳の体系を崩す枚挙にいとまがない。中世 末期キリスト教会の主導によって行われた魔女狩りで、数百万人(実際の数が不明)は焚刑、絞首刑、溺死刑などの残虐な処刑法で犠牲された*2。14世紀から16世紀にわたって、中米メキシコに栄えるアステカ文明は、ピラミッドで生きたまま人間の生贄の胸を切り分け、心臓を神様へのささげ物としてえぐり出す行為があるそうである*3。また、今日の自爆テロは自分の宗教を絶対的なものと主張し、理性さえ失われるほど盲従してしまう。このように、宗教を絶対的な道徳にすることの危険性は明らかである。
そうして、宗教は絶対的な道徳だとすれば、その規範は一つしかないはずである。なぜかというと、「真理」は一つしかないからである。しかし、世界宗教はそ れぞれ異なった道徳の体系をもっている。例えば、同性愛は道徳な行為か不道徳な行為かということを考えてみよう。キリスト教やイスラム教では同性愛行為は 自然に逆らうので、不道徳だとされている。それに対して、仏教の聖典にはそれに対する一致は別にない。また、現代社会の価値観から見れば、人間の性的な傾 向を犯すのは、不道徳な行為だとされているため、イギリスでは同性愛行為は合法化されている。それに対して、ほとんど他の国では、それが禁制されている。 だから、道徳の尺度は文化のみならず、宗教にわたって異なっているのである。それは巨大な矛盾であり、一言で言えば、道徳は相対的なものである。
道徳自体はそもそも宗教から枝分かれするのではなく、独立するものである。例えば、利己ではなく、友に共感できるという道徳性は、人間にだけでなく、ネズ ミにも表されている。動物行為の研究者マック・ベッコフ(Marc Bekoff)は、ネズミは自分がえさをとることで、友が感電されたら、共感して、それをやめるという「動物の道徳性」を観察した*4。また、吸血コウモリには飢えている友に食べさせてあげる行為があるそうである*5。以上の例を考えると、道徳は宗教を規範にする必要はない。というのは、道徳は自然に生じる性質だからである。
このように、道徳は宗教と相互に独立するものということが否定できない。教条主義的な道徳は絶対的な道徳ではない。それは、人間の理性や共感により定められたものは、道徳の規範になれるわけからである。
参考文献:
3 comments:
Well, there r really sum radical part in ur thesis.
But overall, it's a nice thesis, to omou....
Haha....
Yes, because I'm God
Ore wa Kamisama desu.
sigh... watever u r saying, ore wa zen zen wakanai...
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